日露戦争はなぜ起きたのか?(その1)戦争の原因とは?
日本は約100年前の1904年~1905年にかけて、当時の大国であったロシア帝国と戦争をしていました。
結果的には日本の勝利で終わったこの戦争は、後に日本や世界中の国々に大きな影響を与え、歴史の転換期ともいえるものでもありました。
日本はなぜロシアと戦争をすることになったのか?それの原因と、戦争によって日本はどんな影響を得て、何を得られたのか?などについてをわかりやすく解説していきます。
この「日露戦争」の解説は2回に分けて解説します。この回では日露戦争が起きる原因についての解説です。
日露戦争とは
日露戦争とは1904年の2月8日~1905年の9月5日の約1年半かけて行われた日本とロシアの戦争のことです。
主戦場は日本とロシアの中間地点に当たる中国東北部の満州であり、この戦争は多大な犠牲と損害を出しながらも日本の勝利で終えています。
当時の日本は小国であり、明治維新での国の近代化からまだ38年しか立っていません。それに対して、相手のロシアは大国であり、日本との差は歴然です。
-
経済力8倍(国家予算 日本:2.9億,ロシア:20.8億)
-
海軍力3倍(軍艦総排水量 日本:22万トン,ロシア:80万トン)
-
兵力2倍(動員できる兵力 日本:100万,ロシア:200万)
-
戦費1.3倍(戦費(軍事費) 日本:15億,ロシア:22億)
これは後の太平洋戦争で戦ったアメリカ以上の戦力差であり、国家予算の6倍(戦費)を投入しての戦争でした。
「日露戦争」が起きた原因である日露の対立とは?
当時、世界中が帝国主義が真っただ中の時代であり、それぞれの国が植民地を持ち、領土獲得を狙う覇権を争う時代でもありました。
1894年の日清戦争で勝利した日本は、清(当時の中国)と下関条約というものを結び、多額の賠償金と朝鮮や台湾といった領土を得ます。その中に遼東半島という清と朝鮮の間に位置する半島も含まれています。
当時の清(中国)の地域一帯は、あらゆるヨーロッパ諸国から狙われており、南下政策というものをとっていたロシアも清や朝鮮の地域一帯を狙っていました。
後に日本は「三国干渉」というものを受け、遼東半島を清に返してしまうことになります。
※南下政策と三国干渉の詳細は以下で解説
南下政策とは?
「南下政策」とはロシアが取っていた南へ南へと領土を拡大していく政策のことです。簡単に言えば、南への領土拡大のための侵略のことです。
ロシアの狙いは冬でも凍らない「不凍港」を手に入れることでした。
以前から南方への進出を狙い、不凍港を手に入れようとしたロシアは地中海へ出ようとして、当時のオスマン帝国(トルコ)と何度も戦争をしてきた歴史があります。
それが露土戦争やクリミア戦争であり、1853年~1856年のクリミア戦争ではイギリス、フランスの支援により、オスマン帝国が勝利をしています。
このような結果から地中海方面への進出を断念し、当時はヨーロッパ諸国が手薄であった清の地域一帯である東へとロシアは徐々に進出していきます。
後の1860年の北京条約により、清から満州の一部の領土得て、遂に日本海に隣接する極東地域の不凍港を手に入れます。
この不凍港の名前を「東を征服せよ」という意味であるウラジオストクと名付けています。
三国干渉とは?
三国干渉とはロシアがフランスとドイツを誘い、日本に対して遼東半島を清に返すように勧告したことです。なんとこれは、下関条約を結んで6日後の出来事です。
当時の列強の国であるロシア、フランス、ドイツまで混じって圧力を受けたことで、国力の無い日本はしぶしぶこの要求を呑むしかありませんでした。
三国からは、「極東の平和のためだ」などと日本に言ってきて、それぞれの国は清の領土一帯を狙っていたことは確かです。
現に「三国干渉」後のイギリス、フランス、ロシア、ドイツといった列強国は清の各地を租借しては勢力を拡大しています。
ロシアはこの時、「三国干渉」で清に返させた遼東半島の中の旅順と大連を租借し、旅順には軍港を築いています。
満州を事実上占領してしまうロシア
1900年の6月~9月にかけて、清の国内でとある大事件が起きます。
それが「義和団の乱 」と呼ばれるものであり、この事件を機に日本とロシアの対立は更に深まっていきます。
「義和団の乱」とは?
「義和団の乱」とは、清国内の「義和団」といわれる宗教団体が外国勢力を追い払おうと行った民衆蜂起運動のことです。別名では「義和団事件」「北清事変」とも呼ばれます。
ヨーロッパの列強国に散々のようにやられてきた清国内の民衆の不満は溜まり、主に反キリストなどを掲げ、北京をすぐさま占領します。キリスト教の教会や各国の公使館を襲撃したり、日本とドイツの外交官を殺害するなどの大事件に発展していきます。
当時の清朝政府で実権を持っていた「西太后」は、なんとこの「義和団」を密かに後押しをしていました。そして正式にこの「義和団」を支持し、欧米列国に宣戦布告をしてしまいます。
「義和団」鎮圧に各国が軍を派遣
この「義和団」鎮圧のために、イギリス、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の8ヵ国連合は軍を北京に派遣します。
「義和団」の鎮圧後、清は更に過酷な内容である北京議定書を受け入れることになってしまい、列強国による清の分割統治は更に加速することになりました。
北京議定書の内容はここでは省略するものの、主な内容は各国への多額の賠償を背負うことになり、北京と天津(どちらも隣接している中国の北東部)に外国軍隊の駐屯を認めることになります。
後に清は財政破綻していき、長い歴史を持った「清王朝」は滅亡へと向かっていきます。
満州から軍を撤退しないロシア
「義和団の乱」を終え、各国の軍隊が清から撤退していく中、ロシアだけは清の満州から軍を撤退させませんでした。撤退どころか、なんと満州に部隊を増強し始めます。
「義和団の乱」のどさくさに紛れ、極東ロシア軍を展開し、満州に居座り続けてしまいます。
これに対し、イギリスと日本はロシアを非難するものの、ロシアは全く応じようとはしません。ロシアは、事実上に満州を占領してしまい、徐々に南へと勢力を拡大していきます。
満州のすぐ下には朝鮮があり、「朝鮮が占領されれば、次は日本も占領」という危機的状況を日本は抱えていました。
絶好の機会が訪れた「日英同盟」
そんな時、日本と同様にロシアの南への勢力拡大を嫌っていた国がありました。それが当時の世界の覇権を握っていた帝国であるイギリスです。
イギリスも清に多くの租借地を持ち、清の南にはイギリスの植民地であるインドやビルマなどがあります。
これら権益を犯されるかもしれないと感じたイギリスは、ロシアの南下政策に危機感を持っていました。
ロシアを抑えられる国を見つけたイギリス
しかし、イギリスはボーア戦争(南アフリカでの戦争)が長期化してしまい、極東のアジア地域に自国の兵力を注ぐ余裕はありませんでした。
そんな時、同じくロシアの南下政策に危機感を持っており、徐々に国としての力を付け始めてる新興の日本に目をつけます。そして日本にとっても絶好の機会であるイギリスとの同盟関係を結びます。これが1902年に結ばれた「日英同盟」と呼ばれるものです。
イギリス日本双方にとっても、同盟によってロシアは南への勢力拡大を牽制する狙いがありました。
日本にとっても露仏同盟(ロシアとフランスの同盟)を結んだロシアを相手にすれば、フランスを相手にすることにもなり、2つの大国を相手にすることは無理がありました。
世界最大の覇権を握るイギリスの後ろ盾を得られた事は、日本にとっては非常に大きなことでした。
この「日英同盟」は、日本がロシアと戦争をする場合、一対一同士なら中立関係になるものの、もしフランスが参戦してきた場合は、イギリスも日本側について参戦するという内容です。
これによりフランスを抑えることにも成功し、中立とはいうもののイギリスは、日本に対して情報提供やロシア海軍に対する妨害活動などを行っています。
ロシアとの最後の交渉を行う日本
「日英同盟」を知ったロシアは3回に分けての満州からの軍の撤退を約束します。しかし、1回目は撤退を行ったものの、2回目以降は約束を無視して撤退を行いませんでした。
そして、なんと1回目の撤退は、満州からの本国への撤退ではなく、旅順へと兵を移動させていたことが判明します。
日本側の譲渡案である「満韓交換論」
1903年8月にロシアとの交渉で、日本はロシアの満州での権利を認める代わりに、朝鮮半島における日本の権利を認めさせる案をロシアに提案します。
簡単に言えば「満州にロシア軍が居座っても構わないから、朝鮮半島には来ないでくれ」と要求します。
しかし、ロシア海軍関東州のアレクセーエフ総督はその案を全くのもうとはしませんでした。しかも朝鮮の北側をロシアに寄こせという始末です。
ロシアにとっては小国である日本の言うことなどを聞くはずがありませんでした。
この交渉は決裂し、後にロシアとの開戦を日本は決意します。
まとめとしては、ロシアは南下政策を進めたかったが、それを恐れて拒んだ日本との対立が、日露戦争の主な原因です。
次回は日露戦争の経過と、日露戦争後によって得た物や、その後の日本とロシア、または世界に対してどんな影響を与えたかについてを解説していきます。
追記:12/4
beginner-military.hatenablog.jp
参考資料
http://www.y-history.net/appendix/wh1403-039.html
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/R-JW%20FRONT.htm
国連を「国際連合」とは呼べない。国連とは元々何だったか
上記は「連合国は自由のために戦う」と書かれているポスター
「国連」とよく呼ばれている「国際連合」。安全保障を主とするこの国際組織は、「国際平和・安全の維持」、「諸外国間の友好関係の発展」、「経済や社会などの国際強力の実現」(国連憲章の冒頭から一部を抜粋)のためにあるとされています。
世界中から加盟国が集まり、「中立で公正公平な組織」、「調和のとれた国際平和を目指す」かのようなイメージを持つ方が多く、日本ではそういう組織だとされていますが、必ずしもそうではないとも言えます。(公正公平とは何か。という所まで話が進んでしまいそうですが、ここでは省きます)
今回は「国連というものは何か」というような概要説明ではなく、「国連」というものに対する日本人の捉え方とは違う面を持つ本来の「国連」について少し紹介したいと思います。
- 「国連」の訳し方がそもそも違う
- 元々は日本は「敵国」、今でもある意味「敵国」
- 第8章 地域的取極(とりきめ) 第53条
- 第17章 安全保障の過渡的規定 第107条
- 多大な国際貢献をしていても、いつでも敵国にできる国
「国連」の訳し方がそもそも違う
国連は「国際連合」の略称です。しかし、その「国際連合」を英語にすると「United Nations」です。国際(International)とつくはずの組織のはずが、「International」という言葉が一切見当たりません。しかし、日本語では「国際」という文字が入っています。
「United Nations」は、直訳すれば「連合国」です。
あの歴史の授業で習う、日本・ドイツ・イタリア「枢軸国」と敵対していたあの「連合国」(軍)のことです。しかし、戦後を扱う歴史の授業では「連合国」ではなく、「国際連合」となっています。
「連合国 軍」とは戦時中のアメリカ、イギリス、ソ連(ロシア)、中華民国(中華人民共和国)、フランスを中心とした同盟国軍のことです。現在、この5ヶ国に共通することは何か?当時の「戦勝国」のことであり、あの「常任時理事国」というものです。(フランスは厳密には戦勝国ではありませんが、詳しい説明はここで割愛)
戦後、日本が国際復帰を果たす際に、「国連」(いわゆる国連)に加盟しました。そして当時の外務省の役人は、「United Nations」を「国際連合」と訳しました。なぜ国際と訳したのかには不明ですが、当時の日本では受け入れられないと判断したのかもしれません。
続きを読む「原子力潜水艦」の良さとは何か。「通常動力型潜水艦」との違い
米軍基地の話題で、よく「原子力潜水艦」という言葉を聞くと思います。
「原子力潜水艦」とは名前の通り、「原子力」を機関として動いている潜水艦のことです。
今回は「原子力潜水艦」ついて、通常の潜水艦との違いや良さについて解説していきます。
原子力潜水艦の特徴
出典:
「原子力潜水艦」とは、上でも上げた通り、「原子炉」を搭載した潜水艦のことを指します。
原子炉で発生する熱で水蒸気を発生させ、その水蒸気によるエネルギーで潜水艦のスクリューを回します。ここで原子力潜水艦のスクリューを回す方法には、以下の二種類があります。
- 原子炉の熱で発生させた水蒸気で、蒸気タービンを回して、スクリューを回転させる。(水蒸気で直接スクリューを回すこと)
- 水蒸気でタービンを回して一旦発電させる。その発電させた電力をモーターに供給してスクリューを回転させる。
通常の潜水艦は、ディーゼル・エレクトリック方式というのが主流であり、ディーゼルエンジンで電気を発電してバッテリーに電気蓄え、それをモーターで回して推進します。他にも
原子力潜水艦の特徴をまとめると以下になります。
原子力による高い出力を得られる
原子力による高い出力を得られるため、高速航走が可能になります。また原子力のため、燃料消費をそれほど気にする必要がないため、最大出力での高速航行を長時間行えます。
長期間の継続的な潜行活動ができる
原子炉の動作には酸素を必要としないため、長期間の潜行が可能であり、通常の潜水艦と違って、活動範囲の制約がありません。
また、原子炉の核燃料の補充が数年か十数年の一度で済むため、通常の潜水艦のように頻繁な燃料補強をしなくて済みます。
海水を電気分解により酸素を作り出せる
出典:
http://www.meti.go.jp/policy/chemical_management/chemical_wondertown/labo/page02.html
空気の入らない水中の密閉された空間に人がいれば、当然に潜水艦内の酸素が減っていきます。原子力潜水艦は、原子炉の有り余るエネルギーで発電した電気を使い、周りの海水を電気分解することにより、酸素を作り出すことができます。
当然、呼吸により潜水艦内の二酸化炭素も出るので、化学薬品で吸収しています。
続きを読む