わかりやすい安全保障・軍事入門

ニュースなどで聞くけど難しいと感じる軍事や防衛、安全保障などについて入門者向けにわかりやすく解説していきます。たまに軍事のマニアックなネタや軍事に関する歴史なども解説。

なぜ「日米安全保障条約」ができたのか。日本に米軍基地がある理由

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出典:Japan/America Society of Kentucky - Dr. Shimada Japan Lecture and Panel Discussion

沖縄の普天間基地問題や、その他の米軍基地などの問題が話題になるように、日本には多くのアメリカ軍基地があります。日本はアメリカと「日米安全保障条約」を結んだことにより、日本は基地を提供してアメリカ軍が駐屯しています。

しかし、「日米安全保障条約」などを取り巻く環境もいろんな要素が絡み合い、様々な問題となっています。

 

そもそもなぜ他国の軍隊であるアメリカ軍が日本に駐屯しているのか?そして、そうなった経緯とは何か?それに基づいた「日米安全保障条約」とは何か?ということについても解説していきます。

日米安全保障条約とは?

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出典:RIAC :: Japan-US-China Triangle and Security in East Asia: a Triangle or an Axis?

日米安全保障条約」とは1951年のサンフランシスコ講和条約の調印と同時に、日本とアメリカ間で終結された条約で、内容は日本の安全を保障するための米軍の駐留などを定めたものです。

その9年後の1960年には、今までの日米安全保障条約を事実上に改定した「日米間の相互協力及び安全保障条約」というものを結んでいます。(旧安全保障条約はこの時に失効)

つまり簡単に言えば、日本の外国侵略に対する脅威の対処はアメリカが行うというものです。ここまでは学校の授業で習う誰でも知っている話であると思います。

 

しかし、ここで多くの人が抱く疑問としては、「なぜアメリカが日本を守ってくれるのか?」という疑問を抱くと思います。この条約が終結された6年前まではお互い戦争をしていました。そんな敵国でもあった日本を守ると条約で定めたのはなぜか?

それには日米安保が出来た経緯、そしてアメリカ側の狙い日本側の狙いも知らなければいけません。

日米安全保障条約」が出来た経緯

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出典:Which were the communist countries during the Cold War? | Reference.com

第二次世界大戦で日本は敗戦すると、連合国の占領下になり、日本軍が解体されます。

この時、世界はアメリカを中心とした資本主義・自由主義勢力の西側諸国、ソ連を中心とした社会主義共産主義勢力の東側諸国に分かれ、両陣営による東西冷戦が始まっていました。

世界中で共産主義圏が広まっていき、日本の近隣国である中国(中華人民共和国)も共産化していきます。

後の5年後の1950年には西側諸国(アメリカ,イギリスなど)と東側諸国(ソ連,中国)の代理戦争である「朝鮮戦争」が起こります。

アメリカとしては朝鮮戦争の前線基地としての日本に軍を置いて起きたかったのと、日本をソ連からの共産主義圏の影響を抑え、西側諸国に付かせておきたかったという狙いがありました。

日本とアメリカの狙いがマッチした政策

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出典:About Japan: A Teacher's Resource | Signing of US-Japan Security Treaty 1951 | Japan Society

朝鮮戦争」の最中にGHQは、最低限の日本の防衛のために「警察予備隊」を作ることを当時の首相の吉田茂に命令します。(後の自衛隊となる前身組織)

翌年の1951年にサンフランシスコ平和条約で日本は主権を取り戻すと、同時にアメリカ軍が引き続き日本に駐屯する内容を含んだ「日米安全保障条約」を結びます。

 

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出典:Cold War Conflicts Outside Europe

アメリカ側としては、共産主義圏の拡大を抑えるための防波堤、または前線基地としての狙い。

日本側としては、軽装備の少ない軍事費(警察予備隊)とアメリカ軍に国防を担ってもらう事で、日本の復興と経済発展に国力を充てられるという狙いがありました。

当時の首相であった吉田茂はこれを国家戦略として考え、日本は後に高度経済成長を遂げます。この考え方を吉田ドクトリンといいます。

 

日本はその後もアメリカ軍という存在の「抑止力」を得ることになります。

beginner-military.hatenablog.jp

日米安全保障条約の改定

1960年の日本が高度経済成長の真っ只中に、日米安全保障条約が改定されます。

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」というものです。

新たな日米安全保障条約

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出典:日米同盟の歴史 « American View

今までの「日米安全保障条約」には不備があり、日本からは平等とはいえる内容ではありませんでした。

それは、日本がアメリカに基地を提供して駐屯を許すものの、アメリカ軍が日本を防衛するかどうかは、条約の内容では明確では無かったからです。

内容には「日本の安全に寄付する」とだけ規定されていて、仮に日本が攻撃を受けたとしても、日本を防衛するかどうかはアメリカ政府の判断がすることでハッキリしていませんでした。

更には日本に内乱などが起きた際に、アメリカ軍がその内乱に介入できるという規定もありました。もしアメリカ軍の介入を許せば、再びアメリカの占領統治下になってしまうという恐れもありました。

 

これらの問題を解消するため、日本はアメリカに対して安全保障条約の改定を打ち出し、アメリカ側も日本との今後の関係を考えた場合に平等なパートナーシップになるべきだと考えるようになります。

1960年に「日米間の相互協力及び安全保障条約」を結び、現在の日米同盟の元が生まれます。

 

改定の内容としては、「アメリカ軍の内乱介入の削除」。そして「日本が攻撃を受けた際に、日米共同で防衛をする」という「日米共同防衛の明文化」を行いました。

これは少し前まで話題になった集団的自衛権を前提とした内容です。(集団的自衛権が成立されるまで、50年以上もかかっています)

そして在日アメリカ軍が配備や装備の変更をする際、事前に日本と協議をする必要がある制度を設けました。

この条約は10年ごとに破棄するか更新するかを決めることができます。

安保闘争」という反対運動が起きる

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出展:安保闘争 - Wikipedia

しかし、この安保改正によって国会が数万人の包囲されるほどのデモを起こし、死者を出すほどの「安保闘争」を引き起こします。

「日米共同防衛」というのを聞いた国民が、「日本はアメリカの戦争に巻き込まれるのではないか」という不安を抱いた人が多くいたためです。

少し前にあった「集団自衛権の行使容認」と同じようなことが昔でも起きていました。

経済成長により基地負担と防衛力強化を要求される

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出典:Japan and the United States can take in shaping the strategic guidelines | News Time

安保改正から10年が立った1970年の最初の条約更新時に、アメリカは日本に防衛費と防衛分担の拡大を要求します。

日本の高度経済成長により、日本は十分な経済力を付けたことから、アメリカは自らで防衛に力を割り当てることを日本に要求します。

この頃は東西冷戦の真っ只中であり、1970年代から日本の防衛は大幅に拡大していき、防衛費の予算も増大していきます。

要求の内容は以下の通りです。

  • 在日アメリカ軍の駐留費用の肩代わり
  • 日本の防衛力の増強のための自衛隊の強化
  • 「日米ガイドライン」を締結

「日米ガイドライン」とは「日米防衛協力のための指針」と言われるもので、日本が外国に攻められるなどの有事が起きた際に、自衛隊とアメリカ軍での防衛の役割分担を取り決めた文書のことです。

自衛隊の任務内容や日本とアメリカ間の合同訓練の内容など、他にも在日アメリカ軍の駐留費用の肩代わりの内容なども含まれています。

この日米ガイドラインは、東西冷戦中の1978年に「ソ連」に対抗することに備えて作られました。後の1997年にこの日米ガイドラインは改定され、去年の2015年には2回目の改定をしています。

「東西冷戦」構造の崩壊後の日米安保の意味とは?

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1991年にソ連が崩壊すると、東西冷戦が終わりを迎えます。

元々は東西冷戦を前提としていたこの「日米安全保障条約」の意味がなくなるのかと言えば、それは違います。

ソ連崩壊後も依然として、日本周辺は地域紛争問題や多くの脅威を抱えているからです。

北朝鮮のミサイル発射実験、中国と台湾の紛争問題。更には中国の南シナ海の覇権をめぐる問題、日本も中国との東シナ海尖閣諸島などの離島の問題を抱えています。

冷戦後のガイドラインの改定

冷戦後の日本周辺の紛争問題に対処するために、1997年に今までのガイドラインを改定し、「新・ガイドライン」を作ります。

その内容には朝鮮半島の有事を念頭に置いた日本周辺での武力衝突が起きた際の自衛隊とアメリカ軍の役割分担などを定めています。

これにより、日米防衛協力の強化がさらに図られました。また、この「新・ガイドライン」に沿って、東アジアでの地域紛争などが発生した際に、日本がアメリカ軍の後方を支援することを明文化する法律を作りました。

その法律が「周辺事態法」であり、「新・ガイドライン」作られた2年後の1999年に制定されています。

2015年の再度ガイドライン改定

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出典:12 Signs That The U.S. And China Are Moving Toward War | EMerging Equity

2010年代になると中国の軍事力強化や尖閣諸島などの離島の脅威などの問題が徐々に目立つようになっていきました。

このことから、2015年に日米ガイドラインが再度の2回目の改定がされました。

改定の内容は主に以下の3つです。

  • 尖閣諸島などの離島防衛の協力をガイドラインに盛り込む
  • 武力攻撃には至らないが、それになる手前の「グレーゾーン事態」が起きた際の役割分担を追加
  • 日本とアメリカの協力範囲を「アジア太平洋地域およびこれを超えた地域」とし、地球規模に拡大する

2010年代に入り尖閣諸島などの離島の問題が目立ち始めたことから、離島も日米安全保障条約の範囲に含めることを確認し、これらを日米ガイドラインに含めました。 

 

また今までのガイドラインには武力攻撃の発生が予想されたりした場合の「グレーゾーン事態」が起きた際の役割分担が決められていませんでした。

もし日本側にも重要な影響が及ぶと判断された場合、「グレーゾーン事態」が起きた際に日本とアメリカの役割分担などを決めた内容をガイドラインに含めました。

 

そして、最後の「日本とアメリカの協力範囲を地球規模に拡大」というのは、今までのガイドラインでは自衛隊がアメリカ軍を支援または協力できる範囲は日本周辺に限定されていました。

これらのことから、東アジア圏以外の地域でも日米間の協力や支援などの内容を日米ガイドラインに含めました。

これは、南シナ海や中東でのアメリカ軍への支援や、サイバー攻撃や宇宙空間での日米防衛の協力を含んでいます。これらは集団的自衛権を前提としています。

また日本側としては石油などが通るシーレーンの安全確保のためでもあります。

米軍は本当に日本を守ってくれるのか?

よく日米安全保障条約で話題になるのは、「アメリカは本当に守ってくれるのか?」という意見があります。

議会の判断で変わるかもしれない日米同盟

日本が攻撃を受けた際のアメリカ軍の対処としての「日米安全保障条約」の第5条には以下のように書かれています。

第五条

各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する

 

前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。

この話題でよく議論対象となるのは、「自国の憲法上の規定及び手順にしたがって共通の危険に対処する行動を宣言する。」と書かれている部分のことです。

アメリカの場合、戦争を行うにしてもいろいろな手続きを踏まなければいけないからです。

 

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出典:Demographics of the United States Senate | Tuva

特にアメリカは連邦議会の権限が強く、アメリカ大統領独自の判断だけでなく、「戦争権限法」という法律が存在するからです。

この「戦争権限法」という法律は、大統領はアメリカ軍の総指揮官としての権限を持つものの、軍の投入には連邦議会と大統領が共同で判断しなければいけないというものです。

仮に戦争布告などをしてなくても大統領は軍を投入することはできます。しかし、このことを48時間以内に連邦議会に報告する義務があり、もし議会の承認が得られない場合は60日以内に軍を撤退しなければいけないこともこの法律では定められています。

特にアメリカは世論の国でもあり、議会を動かしているのは世論でもあります。

もしアメリカ国内が日本防衛を賛成しない世論であれば、アメリカ軍の日本への派遣を賛成しないということもあり得るかもしれません。

日本側の狙いとアメリカ側の狙い

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出典:U.S., Japan to update defense rules in 2014 | The Japan Times

本来は他国との同盟というものは、自国に利益があるから結ぶものです。

アメリカが日本と日米安全保障条約を結びのは、アメリカ側に利益があるから結んでいます。

アメリカにとっては中国の太平洋進出を抑える狙いや、アジアや太平洋地域のアメリカというプレゼンス(存在)を見せることにより、国際的地位を維持するという目的があるからです。

日本側としても、そのアメリカの目的を利用しており、北朝鮮のミサイル発射実験の脅威への対処であったり、日本の領海や領土であり東シナ海の中国の拡大を抑えたいという狙いがあります。

日本とアメリカ双方とも利害が一致しているからこそ、日米安全保障条約というものが存在します。

 

 

 

日米安全保障条約が出来た最初の目的は、東西冷戦でのソ連への対処のためでもありました。

そこから国際情勢が変わり、現在は中国の進出拡大を抑える目的へと変わっています。

最初はアメリカ軍が日本を守る内容であったものの、現在は日本とアメリカが双方で共同防衛をするという内容に変わっています。

アメリカの新大統領がトランプ大統領になった現在、日米間の安全保障の関係が今後は変わっていくかもしれません。だからこそ、国際情勢の変化に注目してくことが大事です。

参考資料

allabout.co.jp

www.huffingtonpost.jp

防衛省・自衛隊:日米防衛協力のための指針(2015.4.27)

米海軍特殊部隊(Navy SEALs)史上で最多の死傷者数を出した「レッド・ウィング作戦」とは

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アメリカ軍はこれまで、中東やアフリカなどで特殊部隊を派遣する作戦を何度も行ってきました。

特にアフガニスタ紛争においては、テロリストのターリバーンの排除を精力的に行っていました。当然、その全ての作戦が成功したわけではなく、失敗した作戦は何度もあります。

 

その中でもアメリカ海軍特殊部隊、通称 NavySEALs(ネイビー・シールズ)の創世以来、最多の死傷者数を出した最悪の作戦失敗と呼ばれる「レッド・ウィング作戦」を紹介します。

この作戦はSEALsの隊員が、大多数のターリバーンに包囲されて、たった一人だけが生還し、映画「ローン・サバイバー」の実話でもあります。

レッド・ウィング作戦とは?

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出典:https://cmes.arizona.edu/sites/cmes.arizona.edu/files/afghanistan-map.jpg

アメリカ軍は、アフガニスタンにあるクナル洲の山岳地帯周辺を拠点にしているターリバーン幹部の一人、「アフマド・シャー」の排除を計画していました。

作戦にはNavy SEALs・チーム10に、「アフマドー・シャー」が潜伏していると思われる山岳地帯の区域に偵察に向かわせ、その場所を特定し、別に控えていた海兵隊を誘導することでした。

また、可能であれば「アフマド・シャー」の排除も任されていました。

偵察に向かわせたSEALs隊員は、「マーカス・ラトレル一等兵曹」、「マシュー・アクセルン二等兵曹」、SEAL・SDVチーム1の「マイケル・P・マーフィ大尉」、SEAL・SDVチーム2の「ダニーディーツ二等兵曹」の4名です。

 

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出典:http://www.darack.com/sawtalosar/index-old-jan15-08.php Sawtalor Sar Mountain(サウテロ山)

2005年の6月27日の夜間未明に作戦は開始されました。バグラム空軍基地から、マーフィー大尉率いる4人のSEALs隊員を乗せた陸軍の「第160特殊作戦航空連隊」のMH-47ヘリコプター2機が飛びたちます。

サウテロ山南側に到着すると、マーフィー大尉達4名を降ろします。マーフィー大尉達は、目標までは2.4km先にあり、それを徒歩で移動します。

この時、ヘリコプターにも他のSEALsのQRF(即応部隊)も乗っており、マーフィー大尉達を降ろすと、QRF部隊はジャラーラーバード前線基地(ジャラーラーバード空港)に向かい、マーフィー大尉達が偵察を終えるまで、そこにいる海兵隊待機します。

マーフィー大尉達4名が目標地点付近に到着すると、QRF部隊は再度バグラム空軍基地に戻り待機します。

山羊飼いに接触

マーフィー大尉達が、目標地点に向かい近づくと3名の現地の山羊飼いと接触してしまいます。

作戦内容がバレてしまうことを恐れたマーフィー大尉達は拘束して、ジャラーラーバード前線基地にいる司令に無線連絡をして、指示を仰ごうとします。

しかし、場所は電波が届きにくい山岳地帯であり、衛星電話を使っても通信連絡ができません。

いくら作戦がバレてしまったとはいえ、山羊飼い3名は非戦闘員であるため、交戦規則に基づいて排除することができません。マーフィー達は、やむえず現場の判断で拘束を解いてしまいます。

作戦が危機的状況になったと判断したマーフィー大尉は、退却ポイントまで後退することを決めます。

山羊飼いに知らされ、アフマドーシャー達の包囲

退却ポイントまで後退を開始すると、山羊飼いはアフマドー・シャーに知らせられ、マーフィー大尉達4人はアフマド・シャーとその部下達に追われることになります。

アフマド・シャー達の部下は150名以上もいたと言われ、RPK軽機関銃AK47RPG-7対戦車ロケットランチャー、2B9 82mm自動迫撃砲と、重装備で武装をしていました。

必死の後退をしながらも何度も連絡を試みる

激しい銃撃戦をしながら何とか後退するも、マーフィー達4名はサウテロ山北東のシューレック渓谷側に移動を余儀なくされてしまいます。

その間に何度もジャラーラーバード前線基地に衛星電話や無線基地で連絡を試みようとするも、通信環境が悪くて全く繋がることはありませんでした。

ようやく連絡が繋がるも、応援のQRF(即応部隊)も全滅

マーフィー大尉は、衛星電話によりジャラーラーバード前線基地への連絡をようやく成功させ、応援を要請するものの、その直後に戦死してしまいます。

バグラム空軍基地からは、「第160特殊作戦航空連隊」の2機のCH-47ヘリコプターが、チーム10指揮官代行のエリック・クリステンソン少佐率いる8名のSEALs隊員であるQRF(即応部隊)を乗せ、現地へ向かいました。

しかし、ヘリコプターから隊員を降下させる際は、本来はアパッチ(AH-64)などの攻撃ヘリを護衛に付けなければいけませんが、この日は護衛の攻撃ヘリはいませんでした。

原因は、直前に緊急の出動がかかってしまい、バグラム空軍基地には攻撃ヘリが一機もない状況でした。

降下地点で隊員をロープ降下する直前で、アハマド・シャーのターリバーン兵から「RPG-7 対戦車ロケットランチャー」の攻撃を受け、ヘリは撃墜されてしまいます。

唯一に一人だけのSEALs隊員が生き残る。 

これにより、「第160特殊作戦航空連隊」の隊員8名、ヘリに乗り込んでいた即応部隊(QRF)のSEALs隊員8名の合計16名全員が戦死してしまいます。

後に偵察のSEALs隊員3名も死亡し、唯一マーカス・ラトレル一等兵曹が生存します。

マーカス・ラトレル一等兵曹は、多発外傷と骨折をいたるところでしていながらもアハマド・シャーから逃げ続けます。

地元民に匿われ、命を救われる

マーカス・ラトレル一等兵曹は、逃げ続けながらも途中で意識不明に陥ってしまいます。

その後、意識を取り戻した所で、偶然に地元のパシュトゥン人の村人に遭遇します。

それがモハメッド・グーラブという方であり、グーラブ氏は「パシュトゥーンワーリ」というパシュトゥン人の2000年以上続く掟に従い、ラトレル一等兵曹を村に保護し、アフマド・シャーたちから匿います。

「パシュトゥーンワーリ」とは、「敵から追われている者を、自らの命を懸けて助けよ」というものであり、モハメッド・グーラブ氏の助けがなければ、確実にアフマド・シャー達に殺害されていました。

ラトレル一等兵曹は6日間も匿ってもらい、後にアメリカ軍に救出されて奇跡の生還を果たします。

この際、アメリカ軍は周囲へのターリバーンへ空襲による攻撃を行ったものの、アフマド・シャーの殺害は行えませんでした。

アフマド・シャーは、2008年にパキスタンに逃亡するものの、後にパキスタンの警察によって射殺されています。

「レッド・ウイング作戦」の真実と嘘

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出典:http://www.vocativ.com/world/afghanistan-world/navy-seals-savior-marked-death-taliban/

たった1人だけ生き残った奇跡であり、現地民に助けてもらった感動とも思える話ですが、実はこの話には嘘があると言われています。

マーカス・ラトレル一等兵曹は帰国後、この「レッド・ウィング作戦」の体験を元にした回顧録「アフガン、たった一人の生還」という本を出版します。その後、この本を原作とした「ローン・サバイバー」という映画が公開されることになります。

 

ラトレル一等兵曹を助けたことで、グラーブ氏はターリバーンに命を狙われるものの、ラトレル氏が資金援助をしたり、ラトレル氏はグラーブ氏に亡命保護を勧めたり、グリーンカードを取得できるよう援助をし続けます。

映画「ローン・サバイバー」が公開されることが決まり、プローモーション活動によって、モハメッド・グラーブ氏がアメリカに招かれてラトレル一等兵曹と再開を果たします。

ラトレル一等兵曹が書いた回顧録「アフガン、たった一人の生還」を通訳者に翻訳してもらい読んでみると、書かれている内容が事実と違う点が幾つかあることを知ります。

 

  • アハマド・シャーとその部下達は、ラトレル氏SEALsの偵察チームが夜間に山に降下したことを既に知っていた
  • 翌朝、アフマド・シャー達は山の捜索を始める。SEALsの偵察チームが山羊飼いと接触している所を発見する。
  • アフマド・シャー達は、山羊飼いが居たことで銃撃をためらい、山羊飼いが離れる機会を待ってから、銃撃を始めた
  • グラーブ氏がいた村人では、誰もが山からの銃撃戦の発砲音を耳にしており、銃撃戦はすぐに終わった。
  • ラトレル一等兵曹が保護された時、持っていた11のマガジンは未使用だった
  • アフマド・シャーは重要幹部ではなく、ターリバーンの中でも8〜10人程度の小さな組織のリーダーでしかない。
  • SEALs偵察チームを攻撃した民兵は150名以上だと予測されていたが、実際は8〜10人程度と少数。交戦中に、アフマド・シャー達はビデオカメラを回しており、その2台のビデオカメラの映像が証明している。
  • SEALs偵察チームは50人以上のアフマド・シャー達の部下達を射殺したことになっている、後に現地で戦死者捜索を村人と米軍で行っても、アフマド・シャーの部下達の犠牲者を一人も発見できなかった。

 

モハメッド・グラーブ氏は上記のことをラトレル一等兵曹に指摘すると、ものすごい激怒したそうです。以下に詳しいことを載せている方がいます。

news.militaryblog.jp

それ以来、二人は会わなくなったものの、帰国後グラーブ氏は幾度もなくターリバーンから警告と襲撃を受けます。ターリバーンに怯えながら、ラトレル氏以外の協力者達に助けられ、現在はアメリカテキサス州フォートワースで家族と一緒に住んでいるそうです。

 

グーラブ氏は後にこう語っています。

「ラトレル氏を助けことは公開していない。しかし、映画を助けるためにしたことは公開している。いつの日か、彼が真実を話すことを願う。」

 

 

上記のことが本当がどうか真実はわかりません。真実だとしても、ラトレル氏だけでなく、アメリカ海軍側としては、最多の死傷者を出した作戦失敗であり、全貌を明かしたくなかったのかもしれません。これはアメリカ海軍の利権にも関わる問題でもあるかもしれないからです。

しかし、アメリカ海軍側が関わって無かったとしても、多大な犠牲を出した内容で、利益を得るラトエル氏には少しも残念にも感じました。

 

映画になった「ローン・サバイバー

マーカス・ラトエルの回顧録「アフガン、たった一人の生還


参考資料 

news.militaryblog.jp

 

アフガン、たった一人の生還 [ マーカス・ラトレル ]

日露戦争はなぜ起きたのか?(その2)日露戦争の経過と後の影響とは

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出典:https://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/sensou_map.html

前回の記事の続きの「その2」になります。

満韓交換論も決裂した日本は、遂にロシアとの開戦に踏み切ることになります。

beginner-military.hatenablog.jp

 

今回は日露戦争の直前の開戦に至る前での経緯と、日露戦争で日本はどのような方法を用いて勝利をしたのか、そして日露戦争後に当事国だけでない世界各国に与えた影響とは何なのかについてなどをわかりやすく解説していきます。

日本が勝利を得るためにした方法とは

経済力や戦力からしても日本とロシアの差は倍以上であり、大国のロシアに普通に戦っても敵うわけありませんでした。

日本側が戦争に勝つには、「短期決戦で早期の段階でロシアに勝利して、有利な戦況に持ち込こんでロシアに講和を提示する」という方法しかありませんでした。

講和にはアメリカに仲介してもらい、そのために戦争が行える期間は1年ぐらいと事前に決めており、それまでに戦況を日本に有利な状況に持っていかなければなりませんでした。

日露戦争の開戦に至るまでの経緯

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出典:シベリア鉄道 - Wikipedia

満韓交換論が決裂し、日本は翌年1904年にロシアに対して国交断絶を言い渡します。

ロシアの東西を一直線に結ぶシベリア鉄道が完成間近であり、もし完成すればロシア軍の兵や物資などの輸送が極東地域にスームズに派遣が容易になることから、日本にとっては戦争が長期戦になって長引けば、更に圧倒的に不利になると考えていました。

 

日本は短期決戦で戦争に臨み、普通に戦うだけでは勝てる相手ではないことから、いろいろな手段を用いることで戦況を有利にしようとしました。

仲介役のアメリカに対する根回しの用意

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出典:セオドア・ルーズベルト - Wikipedia

「短期決戦で戦況を日本側に有利に運び、ロシアに講和を提示して、アメリカに仲介役を頼む」という方法を取るためには、アメリカの世論を日本に向けさせる必要がありました。

伊藤博文は、当時のアメリカの大統領であるセオドア・ルーズヴェルトとハーバードで同級生であった金子堅太郎をアメリカに派遣します。

金子堅太郎はアメリカ大統領に講和の仲介役を行ってくれるように頼んだり、アメリカの国内世論を日本寄りにするために新聞で投稿したり、有力者が集まるパーティーなどに出席したりといった工作を行いました。

戦争の外貨資金集め

当時の年間国家予算の約6倍も投じて行われたこの日露戦争には、莫大な資金が必要不可欠でした。

そのためにも日本は、同盟国のイギリスやアメリカなどで資金集めに翻弄します。「日英同盟」の後ろ盾を得ていても、あらゆる国が日本が敗北すると思っており、日本の外債の買い取りてが中々いない状況でもありました。

そんな時、日本の外債を買って出てくれたのが、イギリスやアメリカにいるユダヤ人資本家達でもありました。

当時のロシア国内でもユダヤ人は迫害されており、多くのユダヤ資本家達は、むしろ日本の勝利を応援し、日本に同胞のユダヤ人達の救いを求めていました。

これにより日本は日露戦争の資金を調達していくことに成功します。

ちなみにこの借金返済は、なんと戦後の1981年ぐらいまで続ていたと言われています。 

ロシア国内で内乱を起こすようにする

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出典:血の日曜日事件 (1905年) - Wikipedia

日本は戦況を有利にするため、ロシア国内の情勢を不安定にしようと、ロシアで内乱工作活動を行いました。日本政府は、中立国であったスウェーデンに、「明石元二郎」を送り込みます。

明石元二郎は、今でも世界で有名なスパイの一人であり、任務はロシア国内の反政府活動を支援することでした。

明石元次郎には、反政府活動を支援するための大量の資金が渡され、ロシア国内の反政府活動家に援助をしていました。

この頃のロシアは、貴族と民衆達との貧富の差が激しく、世界中にマルクス主義(社会主義思想の元となる考え)が徐々に蔓延し始めている頃でもありました。

明石は、ロシア民衆のその考えを見事に利用し、国内の反政府活動を支援して、ロシア国内を不安定な情勢へと導きます。

 

明石が支援していた活動家には、なんと後のソビエト連邦の初代指導者であるウラジーミル・レーニンまでもいます。後の「血の日曜日事件」や「戦艦ポチョムキンの反乱」などを起こした活動家は、多くが明石元二郎に支援されていました。

こういった反政府支援が皮肉なことに、後のロシア革命など繋がってしまいます。

日露戦争の開戦の経過とは?

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出典:http://yotsumoto.daa.jp/home/nisin-nitiro/nitiro.html

日露戦争の開戦は、1904年の2月8日に、旅順港のロシア旅順艦隊に対して日本海駆逐艦が夜間の奇襲攻撃により始まりました。

この戦争の日本の目的は、あくまでも満韓交換論で提示したように、ロシア軍を朝鮮半島より北に追い出し、戦況が有利な状態で講和に持っていくことです。そのため、何もわざわざロシア国内にまで攻め込む必要はありませんでした。(そもそもロシア国内に攻め入るのは、確実に物資が不足して不可能)

しかし、日本国内では一部の自由民権運動家が、なんとロシアの首都であるサンクトペテルベルクまで攻めろという論調までありました。

 

旅順を落とさなければいけなかった日本

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出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Port_Arthur_from_Gold_Hill.jpg

日本海軍の連合艦隊は、まず旅順港にいる旅順艦隊をどうにかしなければいけませんでした。もし、ヨーロッパのバルト海黒海にいる大艦隊を極東に送られ、旅順艦隊と合流でもされれば、圧倒的な数の艦隊には日本に勝ち目などありませんでした。

 

しかし、旅順港の周辺は要塞で固められており、容易に近づけば要塞から集中砲火を食らうことは間違いありませんでした。

旅順港の外では日本海軍の連合艦隊が待ち構えているため、旅順艦隊は旅順港から出ようとはしませんでした

もしこのまま旅順艦隊と長い睨み合いを続ければ、バルト海にいる大艦隊が極東地域に向かう時間を稼ぐことにもなってしまいます。

そこで、旅順港の入り口に船を沈めて旅順艦隊を港から出られないようにする作戦を実行します。

これが「旅順港閉鎖作戦」と呼ばれる作戦であり、三度に渡って実行するものの失敗で終わってしまいます。

そこで海軍は、陸軍に旅順を攻略してもらい、「旅順港にいる旅順艦隊を砲撃してほしい」と頼みます。

多大な損害を出しながらも旅順を攻略する

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出典:https://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou07_detail.html

陸軍は海軍の旅順港への奇襲攻撃と同日に、朝鮮半島の西にある仁川から上陸し、部隊を北へと進めます。

また、旅順艦隊が旅順港から出ようとはしなかったため、陸軍兵士を乗せた輸送船団は、安全に黄海を進むことができ、遼東半島の南岸から大量の陸軍兵士を揚陸することができました。

 

しかし、遼東半島にある旅順港周辺というのは山地に囲まれており、なおかつロシア軍が強力な要塞で周辺を固めていました。朝鮮半島から上陸した部隊から南下してもらい、陸軍は旅順港全体を包み込むように包囲します。

 

この旅順攻略の指揮を執ったのは乃木稀典(のぎ まれすけ)大将です。乃木稀典は、その前の日清戦争では短期間で旅順を攻略してしまった経験があります。

しかし、前回の日清戦争とは違って、旅順の要塞はコンクリートで固められ、全くビクともしませんでした。この旅順の要塞攻略には多くの戦死者を出してしまいます。

 

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出典:旅順攻囲戦 - Wikipedia

旅順港にいる旅順艦隊に対して砲撃をするためには、旅順周辺にある山地から旅順港を見渡せる観測所が必要となりました。

そこで海軍からの提案もあり、陸軍は「203高地」を奪取しようとします。映画「二百三高地」などで有名になったあの「203高地」のことであり、ここからなら旅順港を見渡せると考え、なんとか多大な犠牲を払いながらも203高地を奪取することに成功します。

この旅順攻略にはなんと1年もの歳月がかかり、6万もの多大な兵士の犠牲者を出しています。

南満州まで追い込んだ「奉天会戦

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1905年の1月に旅順が陥落すると、旅順の攻撃を終えた乃木稀典率いる第三軍が北上し、満州軍と合流します。

開戦から約1年が経過し、日本はこれ以上の戦争継続が困難な状況にまで来ていました。これまでの戦いで、ロシア軍を北に撤退させるまで成功したものの、それまでには多大な犠牲を払いながらの勝利でもありました。

もしこのまま戦争が長引けば、ロシア軍はシベリア鉄道を通じて満州に増援を送り込み、日本側が圧倒的に不利になってしまいます。

そこで、ロシア軍の主力部隊があり、ロシア軍司令部がある「奉天」に総攻撃を仕掛け、ロシア軍を撃滅することで、ロシアの満州での戦争継続を困難にさせて、講和に持っていこうという狙いがありました。31万人ものロシア満州軍と、25万人の日本満州軍による60kmに及ぶ戦線の大会戦でもありました。

一度ロシア軍を包囲しかける所までいくものの、ロシア軍は更に北方に退却してしまいます。奉天を落とす事に成功したものの、ロシア軍の包囲殲滅には失敗してしまいます。

この戦いでロシア満州軍は8万もの死傷者を出し、日本満州軍は7万もの死傷者を出します。

「弾切れ」により、これ以上の追撃が不可能になる

ロシア軍が更に北方に退却すると、日本軍は更に北へ北上して追撃・・・とは行くことはできませんでした。

なんと、この段階で既に弾薬が尽きかけており、これ以上の追撃は不可能でもありました。

仲介役のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは講和への和平交渉をしようとするものの、当然この段階では、まだ講和に応じるわけもありませんでした

海戦史上で類を見ない圧倒的勝利であった「日本海海戦

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出典:日本海海戦 - Wikipedia

奉天会戦」後にセオドア・ルーズベルトが和平交渉をロシアに持ちかけるものの、ロシアはそれに応じるわけがありませんでした。

それは、ロシア西岸のバルト海から出港したバルチック艦隊」に期待していたからです。ロシアは、バルト海にある大艦隊である「バルチック艦隊」を極東地域に派遣していたのでした。

旅順を陥落され、奉天も奪われたロシア側も戦況が有利とは言えない苦しい状況でもありました。しかし、「自分達にはまだバルチック艦隊がある」と思っていたロシアは、これを戦況を逆転するチャンスだと期待していました。

 

ロシア側の狙いは「バルチック艦隊」を極東に派遣して、日本海制海権(日本海を支配)を得ることで、日本本土の港や船を攻撃する狙いがありました。

なぜなら、日本本土から中国大陸に送られる弾薬や人員などの補給物資の道が絶たれることになるからです。

そうなれば、日本の満州軍は補給が受けられず孤立することになり、ロシア軍はシベリア鉄道を通じて増援を満州に送ることで、戦況を圧倒的に有利に持ち込むことができるからです。

 

日本の戦争の命運は、海軍の「東郷平八郎」率いる「連合艦隊」に託されていました。

それまでの「黄海海戦」で戦果を挙げていた海軍ですが、「日本海海戦」では世界の海戦史上に類を見ない勝利をもたらすことになります。

バルチック艦隊」を待ち構える「連合艦隊

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出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/29/Tsushima_battle_map-ja.svg/300px-Tsushima_battle_map-ja.svg.png

バルト海から派遣される「バルチック艦隊」の目的は、途中で無理に戦闘をすることではなく、あくまで極東のウラジオストクに向かい停泊することでした。

ウラジオストクで補給を受け、日本の「連合艦隊」との決戦に望まれれば、日本側にとっては圧倒的に不利になります。

 「バルチック艦隊」がバルト海から出航したとの情報を日本が得ると、「連合艦隊」の悩みは、バルチック艦隊」はどこのルートを通ってウラジオストクに向かうのかがわからないことでした。

当時はレーダーなどは無いため、戦闘艦の見つけ方は直接目で発見する「目視」しかありません。日本海側の対馬海峡を通ってくるのか、それとも太平洋周りの宗谷海峡を通ってくるのかを常に悩ませていました。

そこで、バルト海からの長い距離を航行してくることから、「バルチック艦隊」は疲弊しているだろうと考え、少しでも航行距離の短い対馬海峡を通るだろうと予想し、「連合艦隊」は日本海側の対馬海峡付近で待ち構えることになりました。

イギリスの妨害と長い航行で疲弊した「バルチック艦隊

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出典:日本海海戦 - Wikipedia

バルト海から出航した「バルチック艦隊」は、この後長い船旅と疲弊に見舞われることになります。

なんと日本の同盟国であるイギリスが、バルチック艦隊」に対してしつこい嫌がらせを行ったのでした。

その方法は、当時イギリスが所有していたスエズ運河を通らせない、停泊した先の港で揉め事を起こす、良質な石炭を売らないようにするなど、ただでさえ地球半周とも言える距離を航行しているのに、「バルチック艦隊」は更に疲弊してしまいます。

一方的な勝利で終わる日本海海戦

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出典:The Russo-Japanese War Research Society

貨物船にふんした巡洋艦信濃丸」が、バルチック艦隊対馬海峡付近で発見すると、すぐさま連合艦隊に報告します。

すぐさま「連合艦隊」は出撃し、1905年の5月27日に「日本海海戦」が行われます。

 

この「日本海海戦」は、日本側の一方的とも言える勝利で終えました。

日本側の損害は水雷艇3隻のみ、それに対しロシアは38隻中に21籍が沈められ、残りは拿捕や中立国へ逃亡、生き残りウラジオストクに到着したのは巡洋艦3籍のみという結果になりました。

ポーツマス講和会議」を開く

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出典:ポーツマス条約 - Wikipedia

日本海海戦で圧倒的勝利をするものの、ロシア側は「まだロシアの領土が奪われてない」と言い、講和にはまだ応じようとしませんでした。

 

そこで日本軍は最後の力を振り絞り、1905年7月に北海道の北にある樺太に進行し、なんとか樺太を占領します。

これにより、ロシアはようやく講和会議の交渉に応じることになります。

「弾切れ」を隠しながらも、なんとか講和を結ぶ

1905年の8月10日、アメリカ東部の港湾都市ポーツマスで最初の講和会議を開きます。

この会議には、ロシア側の代表は当時から日露戦争に反対派であったセルゲイ・ウィッテ、日本側の代表は外務大臣小村寿太郎が出ました。

 

この講和の交渉は、10回以上にも及ぶことになり、講和会議が難航をきわめることにもなりました。

ロシア側は、日本が要求する「満州からのロシア軍の撤退」、「朝鮮半島の権利を認めさせる」、「遼東半島を譲渡」、「南満州から旅順までの鉄道の譲渡」には応じました。

 

しかし、ロシア側は「日本への賠償金」と「樺太の譲渡」の要求には全く応じることはありませんでした。その後何度も交渉を行い、「樺太の南部」の譲渡には応じるものの、賠償金の支払いには全く応じることはありませんでした

日本側としては、これ以上の戦争継続は不可能であり、このまま交渉を長引かせれば、弾切れや兵力不足で戦争を継続する能力がないことがバレる可能性がありました。

 

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出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/29/Tsushima_battle_map-ja.svg/300px-Tsushima_battle_map-ja.svg.png

ようやく10回目の講和会議で、ようやくお互いの妥協案が成立し、9月5日に「ポーツマス条約」を結ぶことになりました。ポーツマス条約の主な内容は以下のとおりです。

賠償金を取れなかった政府に対する民衆の不満が爆発する

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出典:日比谷焼打事件 - Wikipedia

しかし、講和会議でロシアから賠償金を一銭も取れなかったことを国民が知ると、多くの日本国民が政府に対して激怒し、「日比谷焼打事件」が起こります。

これは内務大臣官邸や新聞社が襲撃されたり、仲介役であったアメリカも標的とされ、キリストの教会や東京のアメリカ公使館までもが襲撃されるという大事件にまで発展しました。

 

賠償金は取れなかったものの、日露戦争における日本の戦争目的は、あくまでも朝鮮半島より北にロシアを追い出すことでした。

結果的には、おまけに南樺太南満州の鉄道まで得られたので、「ポーツマス講和会議」は成功だったといえると思います。

日露戦争後の日本と世界への影響

小国である日本が大国のロシアを破ったことは、世界中の国々にとっては誰もが予想しなかった衝撃的なニュースでもありました。

また近代では、有色人種国家が白色人種国家に初めて勝った戦争でもあり、日露戦争の日本の勝利は、歴史的な大事件でもありました。(正確にはエチオピア帝国イタリア王国に勝っているものの、イギリスとフランスによる軍事的な全面支援があったものでした)

この戦争は、後の日本や世界に大きな影響を与えていくことになりました。

大国の一員になった日本

この戦争後、日本はヨーロッパ列強国からの評価を高めることになり、明治維新以来の課題でもあった不平等条約改正のきっかけにもなりました。

有色人種国家としては唯一の列強国の仲間入りをし、後の第一世界大戦後には「五大国」へと名を連ね、国際連盟の「常任時理事国」入りを果たします。

アジアの植民地からの独立機運のきっかけとなる

当時のアジア諸国のほとんどは、欧米列強国の植民地でもありました。白人に支配されることを受け入れていた有色人種にとって、有色人種でも白人に勝てるということを知る希望にもなりました。日本がロシアに勝ったことを知ったアジア諸国では、後に独立・革命機運が高まっていくことになります。

当時は10代の少年であったインドの初代首相となるネルーは、「日本の戦捷は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため、毎日、新聞を待ち焦がれた。[中略]私の頭はナショなりチックの意識で一杯になった。インドをヨーロッパの隷属から、アジアをヨーロッパの隷属から救い出すことに思いを馳せた」と語っています。

アメリカとの対立が始まっていく

江戸時代のペリー来航以来、日本とアメリカは友好的な関係を結んでいた国であり、日露戦争での日本側の勝利はアメリカが大きな貢献を果たしています。

 

日露戦争の直後、日本の戦争のための資金である国債を買ってくれた鉄道王で実業家のエドワード・ヘンリー・ハリマンは、セオドア・ルーズベルト大統領の意向を受けて来日し、桂太郎首相に満州から旅順をつなぐ鉄道の共同経営を持ち出します。

一度は合意するものの、ポーツマス講和会議から帰国した小村寿太郎らの強い反対によって、この約束が破棄されてしまいます。(元々、アメリカは中国権益を得る思惑があった)

後の「日比谷焼打事件」などもあり、急激に存在感を増した日本に対して、アメリカ世論の反日意識が高まってしまいます

これはアメリカだけでなく、欧州全土で日本を脅威と捕える「黄禍論」が広まっていく事にもなりました。

ソ連誕生のきっかけの一因となる

日露戦争後は、東への南下政策を諦めることになり、南下政策の矛先を再度西側のバルカン半島向け始めます。これが後に第一次世界大戦へと繋がってく事にもなります。

元々、明石元二郎によるロシアの内乱工作活動をしていたのがあったものの、その後の第一次世界大戦の影響でロシアの経済は低迷し、ロシア革命を引き起こすきっかけへとなります。

これにより、ソビエト連邦が誕生し、共産主義圏の拡大、更には東西冷戦へと繋がっていき、後々の日本を困らせることにもなっていきました。

 

 

 

長くなりましたが、日露戦争は多大な犠牲を出しながらも、日本が世界に存在感を増すきっかけにもなる戦争でもありました。しかし、同時に後々の日本を苦しめることにもなってしまいます。

 

参考資料

yotsumoto.daa.jp

https://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html [日露戦争特別展 Ⅱ]

日露戦争フロント