日露戦争はなぜ起きたのか?(その2)日露戦争の経過と後の影響とは
出典:https://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/sensou_map.html
前回の記事の続きの「その2」になります。
満韓交換論も決裂した日本は、遂にロシアとの開戦に踏み切ることになります。
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今回は日露戦争の直前の開戦に至る前での経緯と、日露戦争で日本はどのような方法を用いて勝利をしたのか、そして日露戦争後に当事国だけでない世界各国に与えた影響とは何なのかについてなどをわかりやすく解説していきます。
- 日本が勝利を得るためにした方法とは
- 日露戦争の開戦に至るまでの経緯
- 日露戦争の開戦の経過とは?
- 海戦史上で類を見ない圧倒的勝利であった「日本海海戦」
- 「ポーツマス講和会議」を開く
- 日露戦争後の日本と世界への影響
日本が勝利を得るためにした方法とは
経済力や戦力からしても日本とロシアの差は倍以上であり、大国のロシアに普通に戦っても敵うわけありませんでした。
日本側が戦争に勝つには、「短期決戦で早期の段階でロシアに勝利して、有利な戦況に持ち込こんでロシアに講和を提示する」という方法しかありませんでした。
講和にはアメリカに仲介してもらい、そのために戦争が行える期間は1年ぐらいと事前に決めており、それまでに戦況を日本に有利な状況に持っていかなければなりませんでした。
日露戦争の開戦に至るまでの経緯
満韓交換論が決裂し、日本は翌年1904年にロシアに対して国交断絶を言い渡します。
ロシアの東西を一直線に結ぶシベリア鉄道が完成間近であり、もし完成すればロシア軍の兵や物資などの輸送が極東地域にスームズに派遣が容易になることから、日本にとっては戦争が長期戦になって長引けば、更に圧倒的に不利になると考えていました。
日本は短期決戦で戦争に臨み、普通に戦うだけでは勝てる相手ではないことから、いろいろな手段を用いることで戦況を有利にしようとしました。
仲介役のアメリカに対する根回しの用意
「短期決戦で戦況を日本側に有利に運び、ロシアに講和を提示して、アメリカに仲介役を頼む」という方法を取るためには、アメリカの世論を日本に向けさせる必要がありました。
伊藤博文は、当時のアメリカの大統領であるセオドア・ルーズヴェルトとハーバードで同級生であった金子堅太郎をアメリカに派遣します。
金子堅太郎はアメリカ大統領に講和の仲介役を行ってくれるように頼んだり、アメリカの国内世論を日本寄りにするために新聞で投稿したり、有力者が集まるパーティーなどに出席したりといった工作を行いました。
戦争の外貨資金集め
当時の年間国家予算の約6倍も投じて行われたこの日露戦争には、莫大な資金が必要不可欠でした。
そのためにも日本は、同盟国のイギリスやアメリカなどで資金集めに翻弄します。「日英同盟」の後ろ盾を得ていても、あらゆる国が日本が敗北すると思っており、日本の外債の買い取りてが中々いない状況でもありました。
そんな時、日本の外債を買って出てくれたのが、イギリスやアメリカにいるユダヤ人資本家達でもありました。
当時のロシア国内でもユダヤ人は迫害されており、多くのユダヤ資本家達は、むしろ日本の勝利を応援し、日本に同胞のユダヤ人達の救いを求めていました。
これにより日本は日露戦争の資金を調達していくことに成功します。
ちなみにこの借金返済は、なんと戦後の1981年ぐらいまで続ていたと言われています。
ロシア国内で内乱を起こすようにする
出典:血の日曜日事件 (1905年) - Wikipedia
日本は戦況を有利にするため、ロシア国内の情勢を不安定にしようと、ロシアで内乱工作活動を行いました。日本政府は、中立国であったスウェーデンに、「明石元二郎」を送り込みます。
明石元二郎は、今でも世界で有名なスパイの一人であり、任務はロシア国内の反政府活動を支援することでした。
明石元次郎には、反政府活動を支援するための大量の資金が渡され、ロシア国内の反政府活動家に援助をしていました。
この頃のロシアは、貴族と民衆達との貧富の差が激しく、世界中にマルクス主義(社会主義思想の元となる考え)が徐々に蔓延し始めている頃でもありました。
明石は、ロシア民衆のその考えを見事に利用し、国内の反政府活動を支援して、ロシア国内を不安定な情勢へと導きます。
明石が支援していた活動家には、なんと後のソビエト連邦の初代指導者であるウラジーミル・レーニンまでもいます。後の「血の日曜日事件」や「戦艦ポチョムキンの反乱」などを起こした活動家は、多くが明石元二郎に支援されていました。
こういった反政府支援が皮肉なことに、後のロシア革命など繋がってしまいます。
日露戦争の開戦の経過とは?
出典:http://yotsumoto.daa.jp/home/nisin-nitiro/nitiro.html
日露戦争の開戦は、1904年の2月8日に、旅順港のロシア旅順艦隊に対して日本海軍駆逐艦が夜間の奇襲攻撃により始まりました。
この戦争の日本の目的は、あくまでも満韓交換論で提示したように、ロシア軍を朝鮮半島より北に追い出し、戦況が有利な状態で講和に持っていくことです。そのため、何もわざわざロシア国内にまで攻め込む必要はありませんでした。(そもそもロシア国内に攻め入るのは、確実に物資が不足して不可能)
しかし、日本国内では一部の自由民権運動家が、なんとロシアの首都であるサンクトペテルベルクまで攻めろという論調までありました。
旅順を落とさなければいけなかった日本
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Port_Arthur_from_Gold_Hill.jpg
日本海軍の連合艦隊は、まず旅順港にいる旅順艦隊をどうにかしなければいけませんでした。もし、ヨーロッパのバルト海と黒海にいる大艦隊を極東に送られ、旅順艦隊と合流でもされれば、圧倒的な数の艦隊には日本に勝ち目などありませんでした。
しかし、旅順港の周辺は要塞で固められており、容易に近づけば要塞から集中砲火を食らうことは間違いありませんでした。
旅順港の外では日本海軍の連合艦隊が待ち構えているため、旅順艦隊は旅順港から出ようとはしませんでした。
もしこのまま旅順艦隊と長い睨み合いを続ければ、バルト海にいる大艦隊が極東地域に向かう時間を稼ぐことにもなってしまいます。
そこで、旅順港の入り口に船を沈めて旅順艦隊を港から出られないようにする作戦を実行します。
これが「旅順港閉鎖作戦」と呼ばれる作戦であり、三度に渡って実行するものの失敗で終わってしまいます。
そこで海軍は、陸軍に旅順を攻略してもらい、「旅順港にいる旅順艦隊を砲撃してほしい」と頼みます。
多大な損害を出しながらも旅順を攻略する
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陸軍は海軍の旅順港への奇襲攻撃と同日に、朝鮮半島の西にある仁川から上陸し、部隊を北へと進めます。
また、旅順艦隊が旅順港から出ようとはしなかったため、陸軍兵士を乗せた輸送船団は、安全に黄海を進むことができ、遼東半島の南岸から大量の陸軍兵士を揚陸することができました。
しかし、遼東半島にある旅順港周辺というのは山地に囲まれており、なおかつロシア軍が強力な要塞で周辺を固めていました。朝鮮半島から上陸した部隊から南下してもらい、陸軍は旅順港全体を包み込むように包囲します。
この旅順攻略の指揮を執ったのは乃木稀典(のぎ まれすけ)大将です。乃木稀典は、その前の日清戦争では短期間で旅順を攻略してしまった経験があります。
しかし、前回の日清戦争とは違って、旅順の要塞はコンクリートで固められ、全くビクともしませんでした。この旅順の要塞攻略には多くの戦死者を出してしまいます。
旅順港にいる旅順艦隊に対して砲撃をするためには、旅順周辺にある山地から旅順港を見渡せる観測所が必要となりました。
そこで海軍からの提案もあり、陸軍は「203高地」を奪取しようとします。映画「二百三高地」などで有名になったあの「203高地」のことであり、ここからなら旅順港を見渡せると考え、なんとか多大な犠牲を払いながらも203高地を奪取することに成功します。
この旅順攻略にはなんと1年もの歳月がかかり、6万もの多大な兵士の犠牲者を出しています。
南満州まで追い込んだ「奉天会戦」
1905年の1月に旅順が陥落すると、旅順の攻撃を終えた乃木稀典率いる第三軍が北上し、満州軍と合流します。
開戦から約1年が経過し、日本はこれ以上の戦争継続が困難な状況にまで来ていました。これまでの戦いで、ロシア軍を北に撤退させるまで成功したものの、それまでには多大な犠牲を払いながらの勝利でもありました。
もしこのまま戦争が長引けば、ロシア軍はシベリア鉄道を通じて満州に増援を送り込み、日本側が圧倒的に不利になってしまいます。
そこで、ロシア軍の主力部隊があり、ロシア軍司令部がある「奉天」に総攻撃を仕掛け、ロシア軍を撃滅することで、ロシアの満州での戦争継続を困難にさせて、講和に持っていこうという狙いがありました。31万人ものロシア満州軍と、25万人の日本満州軍による60kmに及ぶ戦線の大会戦でもありました。
一度ロシア軍を包囲しかける所までいくものの、ロシア軍は更に北方に退却してしまいます。奉天を落とす事に成功したものの、ロシア軍の包囲殲滅には失敗してしまいます。
この戦いでロシア満州軍は8万もの死傷者を出し、日本満州軍は7万もの死傷者を出します。
「弾切れ」により、これ以上の追撃が不可能になる
ロシア軍が更に北方に退却すると、日本軍は更に北へ北上して追撃・・・とは行くことはできませんでした。
なんと、この段階で既に弾薬が尽きかけており、これ以上の追撃は不可能でもありました。
仲介役のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは講和への和平交渉をしようとするものの、当然この段階では、まだ講和に応じるわけもありませんでした。
海戦史上で類を見ない圧倒的勝利であった「日本海海戦」
「奉天会戦」後にセオドア・ルーズベルトが和平交渉をロシアに持ちかけるものの、ロシアはそれに応じるわけがありませんでした。
それは、ロシア西岸のバルト海から出港した「バルチック艦隊」に期待していたからです。ロシアは、バルト海にある大艦隊である「バルチック艦隊」を極東地域に派遣していたのでした。
旅順を陥落され、奉天も奪われたロシア側も戦況が有利とは言えない苦しい状況でもありました。しかし、「自分達にはまだバルチック艦隊がある」と思っていたロシアは、これを戦況を逆転するチャンスだと期待していました。
ロシア側の狙いは「バルチック艦隊」を極東に派遣して、日本海の制海権(日本海を支配)を得ることで、日本本土の港や船を攻撃する狙いがありました。
なぜなら、日本本土から中国大陸に送られる弾薬や人員などの補給物資の道が絶たれることになるからです。
そうなれば、日本の満州軍は補給が受けられず孤立することになり、ロシア軍はシベリア鉄道を通じて増援を満州に送ることで、戦況を圧倒的に有利に持ち込むことができるからです。
日本の戦争の命運は、海軍の「東郷平八郎」率いる「連合艦隊」に託されていました。
それまでの「黄海海戦」で戦果を挙げていた海軍ですが、「日本海海戦」では世界の海戦史上に類を見ない勝利をもたらすことになります。
「バルチック艦隊」を待ち構える「連合艦隊」
バルト海から派遣される「バルチック艦隊」の目的は、途中で無理に戦闘をすることではなく、あくまで極東のウラジオストクに向かい停泊することでした。
ウラジオストクで補給を受け、日本の「連合艦隊」との決戦に望まれれば、日本側にとっては圧倒的に不利になります。
「バルチック艦隊」がバルト海から出航したとの情報を日本が得ると、「連合艦隊」の悩みは、「バルチック艦隊」はどこのルートを通ってウラジオストクに向かうのかがわからないことでした。
当時はレーダーなどは無いため、戦闘艦の見つけ方は直接目で発見する「目視」しかありません。日本海側の対馬海峡を通ってくるのか、それとも太平洋周りの宗谷海峡を通ってくるのかを常に悩ませていました。
そこで、バルト海からの長い距離を航行してくることから、「バルチック艦隊」は疲弊しているだろうと考え、少しでも航行距離の短い対馬海峡を通るだろうと予想し、「連合艦隊」は日本海側の対馬海峡付近で待ち構えることになりました。
イギリスの妨害と長い航行で疲弊した「バルチック艦隊」
バルト海から出航した「バルチック艦隊」は、この後長い船旅と疲弊に見舞われることになります。
なんと日本の同盟国であるイギリスが、「バルチック艦隊」に対してしつこい嫌がらせを行ったのでした。
その方法は、当時イギリスが所有していたスエズ運河を通らせない、停泊した先の港で揉め事を起こす、良質な石炭を売らないようにするなど、ただでさえ地球半周とも言える距離を航行しているのに、「バルチック艦隊」は更に疲弊してしまいます。
一方的な勝利で終わる日本海海戦
出典:The Russo-Japanese War Research Society
貨物船にふんした巡洋艦「信濃丸」が、バルチック艦隊を対馬海峡付近で発見すると、すぐさま連合艦隊に報告します。
すぐさま「連合艦隊」は出撃し、1905年の5月27日に「日本海海戦」が行われます。
この「日本海海戦」は、日本側の一方的とも言える勝利で終えました。
日本側の損害は水雷艇3隻のみ、それに対しロシアは38隻中に21籍が沈められ、残りは拿捕や中立国へ逃亡、生き残りウラジオストクに到着したのは巡洋艦3籍のみという結果になりました。
「ポーツマス講和会議」を開く
日本海海戦で圧倒的勝利をするものの、ロシア側は「まだロシアの領土が奪われてない」と言い、講和にはまだ応じようとしませんでした。
そこで日本軍は最後の力を振り絞り、1905年7月に北海道の北にある樺太に進行し、なんとか樺太を占領します。
これにより、ロシアはようやく講和会議の交渉に応じることになります。
「弾切れ」を隠しながらも、なんとか講和を結ぶ
1905年の8月10日、アメリカ東部の港湾都市ポーツマスで最初の講和会議を開きます。
この会議には、ロシア側の代表は当時から日露戦争に反対派であったセルゲイ・ウィッテ、日本側の代表は外務大臣の小村寿太郎が出ました。
この講和の交渉は、10回以上にも及ぶことになり、講和会議が難航をきわめることにもなりました。
ロシア側は、日本が要求する「満州からのロシア軍の撤退」、「朝鮮半島の権利を認めさせる」、「遼東半島を譲渡」、「南満州から旅順までの鉄道の譲渡」には応じました。
しかし、ロシア側は「日本への賠償金」と「樺太の譲渡」の要求には全く応じることはありませんでした。その後何度も交渉を行い、「樺太の南部」の譲渡には応じるものの、賠償金の支払いには全く応じることはありませんでした。
日本側としては、これ以上の戦争継続は不可能であり、このまま交渉を長引かせれば、弾切れや兵力不足で戦争を継続する能力がないことがバレる可能性がありました。
ようやく10回目の講和会議で、ようやくお互いの妥協案が成立し、9月5日に「ポーツマス条約」を結ぶことになりました。ポーツマス条約の主な内容は以下のとおりです。
賠償金を取れなかった政府に対する民衆の不満が爆発する
しかし、講和会議でロシアから賠償金を一銭も取れなかったことを国民が知ると、多くの日本国民が政府に対して激怒し、「日比谷焼打事件」が起こります。
これは内務大臣官邸や新聞社が襲撃されたり、仲介役であったアメリカも標的とされ、キリストの教会や東京のアメリカ公使館までもが襲撃されるという大事件にまで発展しました。
賠償金は取れなかったものの、日露戦争における日本の戦争目的は、あくまでも朝鮮半島より北にロシアを追い出すことでした。
結果的には、おまけに南樺太や南満州の鉄道まで得られたので、「ポーツマス講和会議」は成功だったといえると思います。
日露戦争後の日本と世界への影響
小国である日本が大国のロシアを破ったことは、世界中の国々にとっては誰もが予想しなかった衝撃的なニュースでもありました。
また近代では、有色人種国家が白色人種国家に初めて勝った戦争でもあり、日露戦争の日本の勝利は、歴史的な大事件でもありました。(正確にはエチオピア帝国がイタリア王国に勝っているものの、イギリスとフランスによる軍事的な全面支援があったものでした)
この戦争は、後の日本や世界に大きな影響を与えていくことになりました。
大国の一員になった日本
この戦争後、日本はヨーロッパ列強国からの評価を高めることになり、明治維新以来の課題でもあった不平等条約改正のきっかけにもなりました。
有色人種国家としては唯一の列強国の仲間入りをし、後の第一世界大戦後には「五大国」へと名を連ね、国際連盟の「常任時理事国」入りを果たします。
アジアの植民地からの独立機運のきっかけとなる
当時のアジア諸国のほとんどは、欧米列強国の植民地でもありました。白人に支配されることを受け入れていた有色人種にとって、有色人種でも白人に勝てるということを知る希望にもなりました。日本がロシアに勝ったことを知ったアジア諸国では、後に独立・革命機運が高まっていくことになります。
当時は10代の少年であったインドの初代首相となるネルーは、「日本の戦捷は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため、毎日、新聞を待ち焦がれた。[中略]私の頭はナショなりチックの意識で一杯になった。インドをヨーロッパの隷属から、アジアをヨーロッパの隷属から救い出すことに思いを馳せた」と語っています。
アメリカとの対立が始まっていく
江戸時代のペリー来航以来、日本とアメリカは友好的な関係を結んでいた国であり、日露戦争での日本側の勝利はアメリカが大きな貢献を果たしています。
日露戦争の直後、日本の戦争のための資金である国債を買ってくれた鉄道王で実業家のエドワード・ヘンリー・ハリマンは、セオドア・ルーズベルト大統領の意向を受けて来日し、桂太郎首相に満州から旅順をつなぐ鉄道の共同経営を持ち出します。
一度は合意するものの、ポーツマス講和会議から帰国した小村寿太郎らの強い反対によって、この約束が破棄されてしまいます。(元々、アメリカは中国権益を得る思惑があった)
後の「日比谷焼打事件」などもあり、急激に存在感を増した日本に対して、アメリカ世論の反日意識が高まってしまいます。
これはアメリカだけでなく、欧州全土で日本を脅威と捕える「黄禍論」が広まっていく事にもなりました。
ソ連誕生のきっかけの一因となる
日露戦争後は、東への南下政策を諦めることになり、南下政策の矛先を再度西側のバルカン半島へと向け始めます。これが後に第一次世界大戦へと繋がってく事にもなります。
元々、明石元二郎によるロシアの内乱工作活動をしていたのがあったものの、その後の第一次世界大戦の影響でロシアの経済は低迷し、ロシア革命を引き起こすきっかけへとなります。
これにより、ソビエト連邦が誕生し、共産主義圏の拡大、更には東西冷戦へと繋がっていき、後々の日本を困らせることにもなっていきました。
長くなりましたが、日露戦争は多大な犠牲を出しながらも、日本が世界に存在感を増すきっかけにもなる戦争でもありました。しかし、同時に後々の日本を苦しめることにもなってしまいます。
参考資料
https://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html [日露戦争特別展 Ⅱ]